昭和48年02月27日 朝の御理解
御神誡 一、「神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと。」
昔から日本人が日本という国を、そういう風に言うております。日本は神国だと、言う意味なんですね。日本は神国と。神国の人に生まれて、神と皇上との大恩を知らぬ事と。いうなら、当時は天皇陛下の事を、現人神といわゆる神の位として、崇めたわけです。ですから、天皇陛下の言わば大恩。勿論そうすると天地金乃神様の大恩を知らぬ事と言う風に、今迄は頂いておりました。
けれどもこれは大変広い範囲で、様々に頂けれる御教だと思うです。だから現在天皇陛下の場合は、いわゆる人間天皇を宣言されたのですから、国民として私共が日本という神国の、その長を努めて下さる天皇陛下を、現人神と頂くと言う事は、私は有難い事だと思うです。そこはどうでも良いと致しましてです。これをもっともっと広く、大きく頂かせて頂くと言う事は、神様がお作りになった、神様が御守護下さってある。いうなら地球全体を、神国と頂くべきだと思うですね。
ですから神国の人に生まれて、地球上に生を受けてと言う事になる訳じゃないでしょうか。人間という者がです、地球上に生を受けておるという事だけでも、神様の大恩を知らなければならない。その神様を神様として、現して下さった教祖生神金光大神。いわゆる教祖の神。教祖の神様の大恩と、天地金乃神様の大恩を知らなければならない。という風に頂いたが、一番的確だと思うのです。又頂き方が大きいと思うのです。
ですからアメリカ人でも、支那人でも日本人でも、又インド人でも、どんな番地の人達でもです。天地金乃神様の大恩と、教祖生神金光大神の大恩を知ること。それを御恩恵を御恩恵として、分かるという事なんです。ですけれども金光様という宗教が、どこに有るやら知らない人が、まぁ殆どでございましょう。世界中という事になれば、地球上という事になれば。そこで私共が金光教の、金光大神であってはならない。
世界中の金光大神であられる事の為に、私共は愈々おかげを受けて、いうなら和賀心時代を広げて行かなければばならん。和賀心という心の上に、そういう心を目指す所の上に、おかげが受けられるというおかげを、世界中の人間氏子に、頂いて貰わねばならんと言う、まぁ一つの責任のようなものをね、私共が感じさせて頂いて。いよいよ自分がおかげを受けなければならないと言う事になります。ですから神と皇上と言う事を、今日は天地の親神様と、教祖の神様という風に頂いて頂く訳です。
そこで教祖の神様が、天地の親神様の大恩、又は御恩徳を、様々な角度から表現して、教えて下さってあります。又それをそう教えて下さる教祖の神様の偉大さ、その素晴らしさ、もう只々恐れ入ってしまいますと言う、教祖の神様へのお礼の心が、大恩を知った者の姿だと。大恩を知らぬ事と仰る。だから教祖の神様、こういう大変な事を教えて下さった事を、お礼を申し上げなければいけません。
教祖の神様の偉大さとか、素晴らしさというものは、それはその人なりに、それぞれに金光教の信心の素晴らしいと言う事を、どこを頂いてもいゝ訳なんです。先日から二十五日の研修会の時に、福岡の安東さんから聞かせて頂いたんですけれども。先日テレビで、東京大学の教授で、全然金光様の御信心には縁のない方。けれども宗教学者、宗教を色々勉強される学者の方だという話でございますけれども。テレビでありましたそうです。その方の宗教観とでも申しますかね。
宗教をどう見ておられるかと言った様な意味の話があったそうですけれども。現在人間が本当に助かって行けれると言う、一番素晴らしい宗教は、金光教を於いてはないと言うお話をなさったそうです。もう本当にそんな素晴らしいお話を、聞いておくべきだった。それこそ、テ-プにでも取っておくべきだったと言うて、まぁ思った事ですけれども。後の祭りですけれども。
勇治君なんかはそれを聞いておって、良くその覚えておるだろうと言うて、お母さんが話しておられましたから、何時かの機会にまた聞かせて貰おうと思うのですけれどもです。金光教の信心を頂いていない人が、教祖金光大神の言われておる事、教えておられる事を見られてです。本当の宗教というのは金光教だと。言うならば激賞されておられる。どこをどう見られたかという事も、ちょっと話しておられましたけれども
。教祖金光大神の働きというものが、全国の津々浦々にある教会のお広前、御結界で同じ教祖金光大神の、お徳に触れおかげに触れ頂く事が出来るんだと。それは本部なら本部教祖金光大神を水源地とするならば、そこから引かれたパイプの水であるからその水は同じだ。どこで蛇口をひねっても、金光大神の有難いおかげというものは、流れて来るようになっている。そういう仕組みになっておるんだという様な事を話されたらしいのです。まぁその程度に、安東さん発表しておられましたからね。
ですから信心の無い人が見るところの、金光教の素晴らしさ。かと言うてそんなら、本部辺りで金光大神の素晴らしいと言う事は、いろんな角度から説かれておりますけれども。金光大神の御生きられ方と言った様な事が、他の宗旨宗派の教祖、宗祖が辿られた道とは、異なっておるという事。と言う様な点を取り上げている訳でございますよね。そこで合楽ではそれを、どういうふうにどんなところが素晴らしいかと。まぁどこも素晴らしいのですけれども。
もう本当に私は今朝からも、その事を思わせて貰うて、教祖様貴方の教えておられる事の素晴らしさに、日に日に驚きをもって頂いておりますと言う、お礼を申し上げました。と言うのは私、昨日ある宗教界の先生方が、三人でこゝに見えられまして、丁度四時位から、四時の御祈念をして見えられましたから、結局私が先日から、あちらからこのご本を読んで下さいと言う事であったから、所々読ませて頂いておった、そこの所から私が率直な批判と言うか、私の意見を聞いて貰ったんです。
その聞いて貰い乍らです。本当に金光様の御信心は素晴らしいなぁ。教祖の教えておられる事の偉大さにね、もうほとほと驚いたんです。だから三十分ばかり聞いて頂いて、それから、私は御結界を下るから、これからあなた方のお話を、ゆっくり聞かせて頂きたいと思うから、と言うて申しましたけれども、いゝえ今日は御無礼致しますと言うて、三人ながら帰ってしまわれましたから、残念でしたけれどもです。
その二人で私がお話をしておる相槌を打ち、私が尋ねた事に対して、それに答えて下さるその事からです。愈々金光様の信心の素晴らしさを感じた訳です。全国をその宗教の為に、布教してまわっておられると言う、まだ若い先生です。ですから丁度その時に十人位お参りし合わせておった方達がおりましたから、その方達は後の方から聞いておったと思うのですけれども。大体あなた方のような、若い身空でしかも挺身的ですよね。もう命がけのような、一生懸命のものをもって布教して回られる。
大体どう言う様な、本部から給料か何か出るのですかと言ったら、「いゝえそんな事はございません」もう只やむにやまれん、私共の偉大な教主様の御信心を、それこそ世界中に広めなければおかんと言う、やむにやまれんもので、こうやって回っておりますとこう言われる。そんならどうして食べていかれるのですか。どうしてそのような素晴らしい、立派な洋服を着て、私は感心しました事は来られるたんびに、その行儀の良さに驚きますね、その先生方の。実に穏やかである事ですそして。
本当にそれは品がいいです。そして何か宗教臭と言うか臭みが無いです。私はそういう素晴らしいあぁた方をです、このように動かしておられる、教主という方は随分偉い方だと思うて。だからそういう偉いそこん所に、私はある意味で感動も致しますし、素晴らしいなと思いますけれども。私共の頂いておる、教祖様という方はもっともっと素晴らしい方だと、私は思うんですよと言うて、聞いて頂いたんです。
例えばそんならどういう風にして、あなた方がこういう、一銭も本部から出る事もないのに、あぁた方が自費でなさっておられる。随分だからお金持ちさんでなからにゃ出来ませんねと言うたら「いゝえそんな事じゃ有りません。実は私共はお花を売って回りますち言う。又は廃品回収を致します」と。その教祖という方が早稲田大学在学中に、朝鮮人の方ですからね。非常にこう虐待を受けられたんですね、軽蔑されなさった。
そして苦学しながら、所謂朝鮮人のぼろ買いさんち言うのがあるから、あれは朝鮮人の専売特許のようになっておりましたからね、あの当時はぼろ買いち言うのは。古金集めたのは。それを教祖という方もなさった訳なんです。ですから教祖がなさった事を、一辺その自分達も、やるという訳なんですね味わいとして。そしてそこから得た金をもって、布教費に当てゝおると言う事なんです。そして又はお花を売って廻る。金が出来たら又布教して回る。はゝあ素晴らしい事ですけれども。
教祖様の生き方というのはね、例えば傘一本で開ける道と言うておられると言う事ですよ。また事実傘一本で開けておるという事実なんですよ。金光教の信心の素晴らしい所は。そんなら金光教の教会も、全国の津々浦々に有ります。どういう小さい教会であってもですよ。花売りに行ったり廃品回収やらは絶対にしないんですからね。もうそれこそ命がけと言うたらこゝ御結界、畳半帖に座り込ませて頂いて、世の中の難儀な氏子の取次ぎ助かる事を一生懸命、祈願したり取り次いだりするだけの事。
そしてそんなら金光教の信心に入ったら、幾ら会費を納めんならんとか、幾らお供えせにゃんとか、お供えとおかげというものは、これは引き換えではなく、別々だという風に説いておられて、事実そういう実が上っておると言う事です。取分け合楽教会の場合は、これだけの事が出来ていきよるけれどもです。花を売りに行った事もなければ、寄進勧化をした事もない。廃品回収してそれで教会の足しにしたと言う事もない。この一事から言うてもです、金光教の信心の素晴らしい事がお分りにならんですかな。
私はあぁた方の素晴らしい宗教に、ここん所をもう一つ、頂いていかれたら素晴らしい事になるのじゃないでしょうかと。それからあなた方が言われる所の、人間の難儀の元というものがです。こういう沢山な原理と言うかね、その難儀の原理というものが、しかもこゝ一点に絞ってあると言う所なんかは、どげん考えても考えられません。どこ迄もキリスト教臭がする宗教であって。本当にあったか、無かったか分からない様な事を信じなければ、キリスト教というものは成り立たないのでありますから。
そういうのじゃなくて、いわゆるご自身で無学の百姓と、教祖様がおっしゃっておられる。無学の百姓でおありになりながらです。その説かれておるところは、こういう御本を何冊その原理を求めて、お書物にするならどれだけになる。いわば難しゅうもなれば、どんなに見易うでも、おかげが受けられるというのが、金光教の信心だ。有り難いという心一つで開けた道じゃから有り難いでは、苦労せんで済む程しのおかげが受けられるというのが、金光教なんです。
だから様々な難儀の元というのは、沢山あろうけれども。その和賀心と言う和らぎ賀ぶ心というものの前には、太陽の前のいうなら星屑のようなものだと。だからそういう助かり方が有ると言うなら、あなた方もそこんところを、ほんなこつじゃろうかという研究を、いっちょなさって見る必要がありはしないですか。人間の難儀の元と言うのが、こういう、とても私共の頭脳では、分かり兼るような、難しい言葉を羅列されておる、お書物を読んだり、聞かなければ分からない。
そんなら分かっただけで、難儀が消えるというのではないと言うのですから。と言うようにお話をさせて頂いたんです。そしたらそんな風で、こそこそと帰ってしまわれましたけれども。例えばその一事でも、金光教の教祖が仰る。和賀心一つにおかげが有るとか。此方の道は傘一本で開ける道とか。資本もいらなければ何も要らん、神様を信じて生まれてくる、安心の境地を例えば開かせて頂いたら、そこから道が開けてくる。
そんなら全国のどこの教会を見ても、そうなんです。初めから資本かけて教会を作ったと言った所はどっこもない。そこに言わば神乍らな道。そして昨日の朝の人情と神情の使い分けの所についての、お話を少しさせて貰ったんです。こんな神乍らな道はないでしょうが。という風にこゝで皆さん御理解を頂かれてです。本当に金光教の信心の御教の素晴らしさを、皆さんも分かって下さってです。その事を私は神様に天地の親神様に、教祖様に、お礼を申し上げなければならないと思うのです。
けれども言うように、傘一本で開ける道と言う様な事でも、本当に傘一本で開ける道だなという体験を頂かなかったら、何にもならない訳です。成程和賀心と言う事に、自分の姿勢を向けた所から、もうおかげが受けられておる、おかげが現われておるというおかげの体験を持たなければです。どんなに教祖様が、おかげは和賀心に有りと仰っても。傘一本で開ける道と仰っておっても。もうそれは値打ちはないのですから、それではお礼が言えれる事にもならないのです。
神と皇上との大恩を知らぬ事。天地金乃神様と所謂、教祖生神金光大神様。所謂教祖の神様との大恩を、私共が分からせて貰って、日々教祖の神様にこの様な素晴らしい事を、日々教えて頂いて、もう只々恐れ入ってしまいますという程しの、おかげを頂いて初めて、神と皇上の大恩が分かるのです。本当に私が言う様にその方達は、世界の宗教を一つにしてしまわにゃ、統一教と言う位ですから。
と言う事だろうと思うのですけれども。本当に私が宗教革命と言う様な言葉をもってするがです。教祖金光大神でなからなければ、説き得ておられん所の御教をです。私共が頂いて、それを現す所のおかげを頂かなければ何にもならない。教祖様がどんな素晴らしい事を言うておられても。だから宗教学者じゃ何にもならない。宗教学者が金光教は素晴らしかと幾ら言うた所で、おかげを受けなかったら何にもならない。
金光教の知識と言うものを、身につけただけではつまらん。教えを頂いて、その教えが、成程本当に傘一本で開ける道だなぁ。成程和賀心一つで一切の難儀の元は消えてしまう程しの新たかな教えだなという事をです。皆さんが体験なさらなければ、大恩を知った事にはならんのであり、又その大恩に対して、神恩感謝の心というものも生まれてこないのですから。まずはどうでも、教祖の御教を元にしての、日々でなからなければ、その体験は生まれてこないと言う事なんですよね。
どうぞ。